1-07 運命(についての)論

「運命主義(全ては運命だという考え方)」というのは、「一部のもの」である運命を 「全てのもの」と同じにしてしまうために矛盾します。 運命とは、人の力では変更するのが不可能(不可抗力)であることを言います。 この定義なら「人の力で変更可能なこと」も成立します。よって、運命主義を運命似非主義と改めます。


犯罪は不可抗力ではありません。そして仮に不可抗力であったとしても、犯罪を処罰するのも不可抗力となるため、 免罪符(犯罪を逃れるための口実)にはなりません。


能力とは、人や機械が或るものごとを成し遂げる(至らせる)働きの度合いです。 可能とは、意識を働かせて(自覚しつつ)選択すれば実現することです。可能性は、その度合いです。 選択肢を自覚する機会に恵まれなければ、当人にとっては全てが一本道の運命になります。 ただし、多くの人が言葉を話す現代では「見ない振りをして」自ら理性の一部を捨てなければ、そうはなりません。 つまり、「全てが運命だ」という人は、そうなる前に自ら選んでいます。そして、そのことから発生する犯罪は多くあります。 運命似非主義は選択肢を作って選び取ろうとする能力及び意欲を奪います。 これを機にして、運命似非主義の混乱から抜け出して下さい。


観察者は決定論(全ては予め決まっている)及び確率論(全ては一定の確率として決まっている)を証明不可能です。 「人が知らなくても、超越的な存在が全ての未来を知っている」というのは成り立ちません。 その観察者にとっての未来は分かりません。観察者が居なければ、観点も存在しません。 どのような観察者でも、その者にとっての未来は未知です。 「知ること」も「確率を算出すること」も、それを行う者にとっては過去の事です。 「超越的な存在なら可能」というのは証明不可能です。それが実在したとしても、 人類には それの代理人を務めるだけの能力が無いからです。



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